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当社の歴史

第二次世界大戦 ~ 海運集約

第二次世界大戦は、わが国の船員と船に壮絶かつ悲惨な歴史を刻みます。

さらに戦後は時代の大きなうねりの中で、激しい景況の波に襲われ、海運業界の大再編が敢行されます。

海運業が経験した戦争の悲劇。

第二次世界大戦は、わが国海運業にも深刻な打撃を与えました。全船舶の政府徴用、造船は政府の管理下、さらに国家総動員法により、船員は準戦闘員となり参戦。この戦争により亡くなった船員は約6万人、戦争参加船員の死亡率は43%と、これは海運軍人の約2.6倍に上ります。乾汽船においても、14隻の船を失い、252名の戦死者を出しました。

あらかじめ沈められることが想定され、安全性や速力、耐久性、信頼性を犠牲に、建造資材は極端に節約し、建造期間も極力短縮した「戦時標準船」といわれる粗製乱造船が大量に生産されました。座礁しただけで沈没する船もたくさんあり、このような船を使い輸送を担った船員の死は、戦争の最大の悲劇の一つです。

大好況と大不況、|造船疑獄|と|海運集約|

戦後、1946年に政府主導の「計画造船」がスタート。海運業保護制度のもと、政府出資の船舶公団により建造費の70%を融資する内容でした。各会社は、これをさらに有利にするために、残り30%の銀行融資についても利息の一部を政府が負担するよう働きかけます。この「外航船建造利子補給法」の制定や融資枠の獲得のための、政府や政治家に対する贈収賄の疑惑が「造船疑獄」と呼ばれています。この事件では、1954年に多くの政界・財界・官僚の人物が逮捕され、当時の吉田茂内閣が倒れる発端となった事件の一つとなりました。

その後、朝鮮戦争や1956年のスエズ動乱による造船ブームとともに、海運業界は好景気を呈し、市況はピークを迎えます。しかしその反動もあり、1958年の市況はわずか2年で5分の1まで低下します。これを機に政府は、日本の海運会社の国際競争力強化と海運企業の再編のために「海運集約」を主導しました。合併や吸収が行われた結果、1964年には、日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、山下新日本汽船、ジャパンライン、昭和海運の海運中核6社が確立されます。

乾汽船は、大阪商船三井船舶の専属会社となるなど、大きな業界再編の渦中にありながらも、その後独立独歩の道を歩み、現在に至っています。またいちはやく、戦後まもない1949年には株式を一般に公開し、現在は東証一部上場会社として海運銘柄の一角を担っています。

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